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◎富山の薬売り(薬種商)



  「柳行李と富山の薬売り」

  富山県を旅していると、わが家でもお世話になった「富山の薬売り」のことが頭に思い浮かぶ。大きな風呂敷に、5段くらい重ねた「柳行李」を包み、それを背負い薬種商はやってきた。お年を召した男性、安心感があり礼儀正しい印象だったことは、今でも脳裏に焼きついたままである。わが家には、それぞれメーカーの違う2〜3人が来ていた。それにしても、こんな遠くの富山県から来たのはなぜだろう。

薬の入った柳行李は、重さが20キロもあったという。薬のほか、懸場帳(かけばちょう)やそろばん、おみやげ品が入っていた。それを背負い20〜30キロの距離を歩き、お得意先を回っていた。北海道へは、雪が降る時期に来た。農家が休眠中で在宅確率の良い冬は、ゆっくり信頼関係を強固にする会話ができるからでしょう。

  「先用後利」

  富山の薬種商は長期間品物を預け、後で使用分の代金を回収する信用取引。「先用後利」と呼ばれるこのクレジット的商法は、江戸時代に始まったというから、富山人の知恵に驚く。信頼関係の商法、そして後払いは将来の販売関係を強固にする利点をも持つ

  その時代、健康を害し入院すると、財産を無くすると聞かされていた。現に私の兄も、スキーや相撲の選手だったが、病に倒れ入院することなく自宅で息を引き取った。そういう時代背景の中、富山の薬が常備自宅に置かれていたことは、経済的な面においても助かることだったのでしょう。お互いが利益を得るすぐれもの商法と言えます。

  「懸場帳」

  無駄のない薬配置をすることが、薬種商の一番大事な仕事だったという。このため、懸場帳という顧客調査書を携えていたという。来訪先の家族構成、健康状態、使用の多い薬と量などなど、配薬・需要が適正に行うための虎の巻を持ち歩いていたと言う。情報管理の詰まった懸場帳は、高額な取引が行われるほど重要なものだったという。

  「思い出」

  小さい頃飲んだ薬の思い出と言えば、「超苦い」です。母からは、「苦いから効く」とよく言われた。薬は苦いものほど効く、このことが今でも頭から離れない。腹が痛いと言えば、「虫下し」を飲まされた。風邪をひいたと言えば「とんぷく」、紙に包まれた粉薬は飲みずらかった。歯が痛いと言えば、「スバリ」、商品名の通り効いた。母の愛用は「實母散」。わが家では、お金に換算できないほどお世話になった。

  一年に一回の訪問。来たときには、薬売りのおじさんから離れなかった。使用の金額を見て、おまけの「紙風船」をプレゼントしてくれるからです。これは、帰り際のセレモニーだったような気がする。ふくらませると、丸ではなく四角となる風船だったと記憶している。

  「時代の変化」

  秋田県阿仁町はマタギで有名。ここには戦後6つの製薬所があり、薬種商も70人いたという。マタギの仕留めた熊の胆などを調合した、人気商品もあったのでしょう。新聞では、金1匁と言われた熊の胆が調剤された商品も、消えゆく「悲しき秘薬」という活字になっている。今は製薬所は全て閉鎖され、薬種商も5人まで減少したという。薬種商の末路を感じます。

ただ、生薬の原料として評価の高い「熊の胆」を売り、その益金で熊の保護をしてはどうかという発想がでている。最近、全国で熊と人間の衝突が多い。私の近辺でも多くなったと感じる。熊と人間の住み分け方針を早く見つけ、昔からの知恵が生んだ「熊の生薬」が生き残ってほしい。

  生きることが最優先の戦後、この富山の薬売りの恩恵は大きかった。しかし、健康保険制度ができ、医薬品は医師の処方するものが主流の時代とにりました。2003年のデータでは、医薬品の生産額は6兆円。その中で家庭配置薬の占める割合は、たったの1%弱だという。苦いから効く「富山の薬売り」の品、今薬種商の顔を苦虫にさせている。



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