■大野で蕎麦屋を 利益は奥さんの装飾品代に
大野そば愛好会、この勝崎さんとの出会いがなければ、いばらの道の愛好会になっていたのは間違いない。
会員の三上敏一さんが、当時北海道新聞函館支社写真課長の宇野均さんから、共同通信社函館支局長(現在東京本社勤務)の勝崎さんを紹介していただいたのが縁の始まり。
技術は財産であり、普通は、技を教えてくれないものだが、先生は違う。積極的に手打ちのわざとコツを私たちに伝授。汁作りも甘さを押さえた本格的なものを指導。私たちも感心したものである。更には、地元のものを使い付加価値をつけるべきことを提案、自ら大野産さんの蜂蜜を砂糖代わりに使い好評の汁を完成させた。
お酒も大好きだ。その上強く、本物の酒豪。良いが回れば回るほど熱弁となり、私たちも少しでも多く技を盗もうと真剣に聞き入ったのが忘れられない。
収穫感謝祭では、大野の粉を褒めてくれた。その席上、『できれば定年前に職を辞し、手打ちそば店を開きたい。その場所は、家内が了承すれば大野町です。そば屋経営での利益は、苦労をかけた女房の装飾品代にしたい。』と宣言した。平成14年に、大野町一本木に土地を購入し、大野町へ移り住むことになっています。夢が現実のものとなりそうです。
2〜3日がかりでなければ作ることができない津軽そばも、敬楽荘訪問で実演してくれた。何事も億劫がらずに、私たちの面倒をみてくれた勝崎さん。
先生は東京勤務となった。しかし、私たちの心の中には、先生というよりは、仲間として低い目線に自分を置きながら指導してくださった姿が残っている。その姿は一生忘れられないだろう。大野町に移り住む日を心待ちの毎日です。
師の言葉、『”努力” ”研究” ”回数” 、以上を怠らないこと』
これを私たちは忘れてはならない。
|