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◎寒冷地稲作の父と水田発祥の地の因果関係



  2003年版・北広島市勢要覧の、「米づくりの尊さを語り継ぎ、守り続けていきます」というのが目にとまった。稲作農家・住田昇さんの話が載っています。

米づくりへの探究心と誇りが、これからの稲作に必要なことだと思います。私は希少となった赤毛種を育てていますが、苦労して立派に実ったときの喜びは何にも代えがたいもの。小学生にも栽培方法を教えており、素直な感動をつづったお礼の手紙をもらったときは、私のほうが感激してしまいました。


  大野で数年前、親子体験学習で米づくりをし、過去に作られた10数種程の品種を植えた。その中に、「赤毛」という品種があり、ススキのような穂にヒゲがついていてビックリした記憶が脳裏にあります。笑い話で、ヒゲが目に刺さるのでスズメも敬遠だったとか。あながち・・・・・・。その赤毛が北広島で・・・・・。

  北広島市が発刊した 「きたひろしま歴史物語」の中に、「寒冷地稲作の父」というタイトルの文章があります。抜粋して紹介します。

北広島がまだ原野でおおわれ、本格的な開拓のくわがいれられる前、島松沢にひとりの男がやってきました。彼はここで、当時だれも不可能だと考えていた米作りにいどんだのです。もともと南の作物の米は、寒い北海道では育たないとされ、屯田兵は米作りを禁止されたほどでした。

  その誰も歩んだことのない道をすすんだ男こそ、中山久蔵そのひとだったのです。久蔵は、島松沢に10アールの水田を開き、道南の大野村(当時)から「赤毛種」という寒さに強い品種の種もみをとりよせ、明治6年(1873年)には、反当たり約350キロの収穫をあげることに成功したのです。

島松川の水を引いての、一反歩の水田試作。5月に蒔き付けを行ったが、寒冷のため思うように発芽せず。そこで、風呂桶を使い温水を昼夜に亘って水田に流し込むなど、苦労を重ねての成功だった。



  北広島市・広報 2004年9月号 みんなの広場 「まちのそとを あるいてみよう」

    中山久蔵が育てた稲の期限を訪ねて 大野町に残る「北海道水田発祥の地碑」


  北海道の南部、亀田郡大野町文月。道道上磯峠下線から少し入ったところに「北海道水田発祥の地碑」がある。

広報おおの平成11年11月号によると、同町の稲作については三つの記録がある。一つは寛文年間(1961〜72)、一つは貞享2年(1685)であるが。いずれも面積や収穫の有無は定かでない。そしてもう一つが、この碑に刻まれている元禄5年(1692)で、「作右衛門なる者450坪を開田し産米10俵を収穫した」とある。

  大野町史(昭和45年)によると、その後幾多の失敗を経て、明治3年(1870)には亀田郡の田が288町余り(およそ286ヘクタール)となり、道内のほとんどの米を産するに至るが、北広島については、次のように記載されている。


「明治6年島松の中山久蔵が、大野へ来て相当日数滞在し、研究の結果持ち帰ったのは赤毛と白ヒゲで、白ヒゲは成功しなかったが、苦心の結果仕上げられた赤毛は、のちには石狩・空知・上川へとひろめられている。」

  現在、碑の周りに田は少なくなり、当時の様子をうかがい知ることはできない。しかし、この地の米が北広島で育ち、さらに全道と広がったことを思うとき、米に対する思いの強さを感じずにはいられない。

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