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◎ねたみとやっかみ


  相田みつを・さんの言葉。「人のしあわせを 本心からよろこべる人は ほとけさまだなあ  人のしあわせを本心では よろこべないときが わたしにはあるから」。

  自分が死んだ時に、本心から泣いてくれる人は何人いるだろうか? かけ引きのないところ、肉親以外には一人もいないのではないかと思っています。それどころか 「あいつもやっと死んだか」 なんていわれて「弔辞」に「歓声」のほうが多いのではないかと、覚悟しています。なぜか?  「賀辞に愁声」「弔辞に歓声」の両方の罪を私もいっぱい重ねてきたからです。

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  ある本に、次ように載っていた。墓地の中をウロウロしていたとき、「従何位勲何等」 と肩書きつきの戒名を見つけました。ウーム。あの世でも勲章がものをいうのかな。それともえんま大王に「なまいきなヤツだ」といじめられているのか・・・・・・。

  良いことをどんなに一生懸命やっても、「良くとられない」こともありますよね。これを真剣に悩む人もいれば、全く意にかえさない人もいます。これを、「弱い人」 「強い人」 と決め付けるのもどうかと思います。さまざまな考え方が飛び交っての人間社会ですもの。
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  「ねたみとやっかみ」  相田みつを 著 「いちずに一本道 いちずに一ッ事」から抜粋

  むかし、江戸時代の初めごろ、播磨の国に一人の盲人がおりました。播磨の国というのは、今の兵庫県の西南部に当たります。この人は、人の話す声を聞いて、その人の心をすべて見ぬいてしまうという、鋭い眼力ならぬ、「耳力」を持っていたというのです。その人が世間一般の人の心を評して次のように言っています。

  「賀辞には必ず愁声あり。弔辞には必ず歓声あり」  世間一般の人の話わ聞いていると、お祝いのことば「賀辞」の中には、その裏側に、「あいつ、うまいことやりやがって」 などという冷たいねたみや恨みのようなもの、「愁声」がかならずひそんでいる

その反対に、人の不幸に対して、お悔やみや「弔辞」を言うときには、腹の底のほうに、「のぼせているからバチが当たったんだ」 などというよろこびの声「歓声」がひそんでいる。

つまり、外交辞令的な表面のことばとはうらはらに、人の幸せをねたみ、人の不幸をよろこぶという、どうにもならない人間の性(さが)、裏表の多い人間の心の奥を、冷徹な耳で見ているんです。それだけに耳が覚めていたんですね。どこが本当で、どこがうそか、ということを冷めた耳で聞き分けていたのです。鋭い耳です。
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