私の母は、89歳のとき「痴ほう」の症状が出ました。ある日近くの店に買い物に行った帰り道、見えている我が家に戻れず、別方向へ。運よく、母を知ってる農家の方が 「母さんどこへ行くの」 と声をかけてくれたんです。夕方なので変に思ってのことでしょう。案の定、「家に帰るの」。ということで、軽トラに乗せて我が家へ送ってきてくれました。
母に聞いたときはもとの精神状態にもどったときで、「どうしてあんな方向に行ったのかわからない」ということでした。まだら状態は、だんだんと常態化していきました。
大牟田市の痴呆ケア研究会が、「痴ほう症」という病気と「痴ほう症の人」の介護や支援について、子供たちにわかりやすく説明する絵本を作りました。この絵本は、「人を思う心」「痴ほうの人の尊い人生」など、私たちに多くの教訓を教えてくれます。
「ぼくのおじいちゃんは冒険家」 大牟田市・痴呆ケア研究会
ぼくが小さかった頃、おじいちゃんはよく近くの川に、魚釣りに連れて行ってくれました。「昔は、ここでよく子どもたちと泳いだものだよ。海水パンツじゃなくて、ふんどしをつけて泳いだんだ。」と、この川に来ると決まってその話をはじめました。
おじいちゃんは、昔は小学校の校長先生だったそうですが、ぼくはあまり想像もがつきませんでした。学校の校長先生は髭を生やしていつも恐そうだったので、とても今の優しいおじいさんとは違うイメージだったからです。
おじいさんはお見合い結婚で、三人の子どもを持ち、いつも子どもたちのことを真っ先に考えて一生懸命働いたそうです。定年後は、好きな釣りや絵を描くのを楽しみにしていました。
ある日、釣りに行ったときのことです。おじいさんは、エサをつけずに糸を出していました。ぼくが、「おじいちゃん、エサが無いと釣れないよ」と言っても、何も言わずそのまま釣っていました。その日、おじいさんが帰り道を間違えたので、ぼくが連れて帰りました。家に帰って、お母さんに話すと、「年ば取っとらすけん、たまには忘れることもあるくさい」と言って笑っていました。
ある日の夕方、おじいさんが、散歩に出てまま暗くなっても帰ってきませんでした。お父さんとお母さんが心配して近所を捜しにいきました。夜遅くなって交番から電話があり、お父さんが迎えに行きました。家に帰っておじいさんはお父さんからひどく叱られました。おじいさんは悲しそうに下を向いていました。おじいさんのことだから、子供たちと一緒に暗くなった町を冒険していたのかなと思いました。
ある日、学校の帰り道でおじいさんとばったり出会いました。おじいさんははだしで歩いていました。「どこに行きよつと?」と聞くと「魚釣り」と答えたけど道具は持っていません。「靴はどげんしたと?」と聞くと、「誰かが持っていったやろ」と言いました。
ぼくは不思議に思いながらも、はだしのおじいさんと一緒に家へ帰りました。靴は、家の中にありました。その後もときどき外に出て帰れなくなり近所のひとにつれて来てもらったり、迎えに行ったりすることが続きました。近所の人たちもおじいさんが通ると 「先生、どこに行かれますか?」 と話しかけてくれたり、おじいさんを見かけると電話をかけてくれたりしました。いつの間にかおじいさんは、町中の有名人になっていました。
また、その頃から、「夜中に学校へ行く」と言って着替えたり、大きな声で騒いだりして、お父さんもお母さんも夜眠れずにおじいさんを叱る事が多くなりました。お父さんとお母さんは困り果てて、ある日おじいさんを大きな精神病院の精神科というところに連れて行きました。
病院から帰ってきたお父さんは、少し悲しそうでした。ぼくが心配そうにしていると、「おじいさんはね、脳の病気になっているんだそうだ。その病気はもの忘れがだんだんひどくなったり、場所や時間が分からなくなる病気で、アルツハイマー型痴ほう症と言うそうだよ。」と言いました。
ぼくは、自分が今何時か、今いる場所がどこか分からなくなったらどんなに不安になるか、想像すると恐ろしいくらいでした。その病気は、少しずつ進行していく病気で、今の医療ではまだ治すのは難しいとのことでした。そう考えると、おじいさんのことが本当にかわいそうになりました。
そう言えば、最近あまり笑わなくなりました。でも、おじいさんはぼくと一緒にいたり、絵を描いているときは、とても優しい目をしていました。何を描いたかわからない絵が多いけど、おじいさんは若い頃、絵の展覧会で入選した事があると言って自慢していました。
それから、お父さんとお母さんは、おじいさんをあまり叱らなくなりました。お父さんは、病院の先生や痴ほう介護の専門の人たちから色々教えてもらったんだそうです。治すのは難しいけれど、ぼくたちの接し方で病気が落ち着くことがあるそうです。
「おじいさんを大切にすること。そして病気の勉強。出来なくなったことに目を向けるんじゃなくて、今出来ることを大切にしてあげること。」と、お父さんが言っていました。ぼくは、お父さんの話を聞いてなんだか嬉しくなって、ぼくもおじいちゃんをもっと大切にしようと思いました。
それからも、おじいさんの冒険は何度か続きました。一度は二日間も見つかりませんでした。お父さんはとうとう交番に捜索願を出しました。ぼくが冒険と思っていたことは、「徘徊」という行動だそうです。ぼくは、「徘徊」という言葉を辞書で引いてみました。「広い範囲を楽しく歩き回ること」と書いてありました。
みんなの心配をよそに、おじいさんはひょっこり楽しそうに帰ってきました。ぼくは、「徘徊」より、やっぱり「冒険」という言葉の方がぴったりだと思いました。
そんなことがあって、お父さんもお母さんも、心配で仕事がつづけられなくなってきたので、おじいさんは施設にいくことになりました。そこは、グループホームといって、痴ほう症のお年寄りが安心して暮らせるところだそうです。普通の家のように家庭的であったかいところで、お世話してくれる専門の人がいます。その人たちは、いつもおじいさんのそばにいて、よく話を聞いてくれています。そして、おじいさんが出来なくなったことだけ手伝っています。ぼくが会いにいくと、いつも笑顔で迎えてくれます。
そのころは、ぼくの名前も思い出せなくなっていましたが、何だか顔が柔らかくなって笑うことも増えていきました。「痴ほう症になつても、いつだっておじいさんの心は生きているんだ」。そう思うと、ぼくもいつのまにか幸福な気持ちになりました。
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