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◎ 田舎から田舎の風景が少なくなる



  私の頭の中にある「田舎の風景」は沢山ある。しかし、ずいぶん減ったなあとも感じる。年のせいかも知れない。毎日洗面鏡で自分の顔を見ていると、年を重ねていることを余り感じない。自分だけは年を取っていないのでは、という錯覚に陥る。しかし、若い頃の写真と見比べると、一目瞭然「納得」となる。「田舎の風景」も、知らず知らずのうちに減っています。


  「くず屋根(かやぶき屋根)の建物」

  市渡地区に在る、通称「まねきや」の安藤商店。小さい頃、毎日のように通った一銭店。今は廃業しているが、大きくて・立派なくず屋根の建物です。数年前に、屋根の傷みの一部を修理した。ところが、修理できる人が近くにゼロ。このため、青森県から泊り込みで修理のプロがやってきた。費用は数百万円と聞く。いまお孫さんが、藍工房として利用しているが、消え去る不安は少なくない。こういう「くず屋根」、町内では極々僅かになった。

  「馬といっしょに生活」

  小さい頃・すぐ近くに、居住部分と馬がいっしょの家があった。居間の戸を開けると、そこは馬小屋。エサを与えるにしても、馬の健康状態監視にも便利のように思えた。でもハエが沢山飛び交っていたが、気にする時代ではなかった。においの問題など、今の時代に通用することではない。こういう形の「曲がり屋」などは、極一部が保存されているだけになっている。

  「田植えの結(ゆ)いっこ」

  春の田植えは、その家にとっては大祭のようなもの。苗取り・いびり押し・苗運び・苗投げ・苗植え・小昼運び・・・・・・・・など、子供からお年寄りまでできる仕事が沢山あった。学校も、「田植え休み」は当然の時代だった。我が家でも、水田8アール(反)を作っていたので、様子はよく覚えている。一家総出、兄弟・親せき大集合、近所の結いっこ、の人たちで大賑わいの中での田植えだった。今時代の田植え、、友人・知人の手伝いをもらい機械でアッという間に、という味気ないものになりました。

  「田舎の社交場・縁側」

  奥の間の雨戸を開けると、そこは「縁側」、という家が多かった。我が家にも小さいながら縁側があり、その前には庭木が植えられすずしい雰囲気が作られていた。そこに、畑作業着のままで腰を下ろし、世間話に花を咲かせていた様子の記憶がある。この頃は社会の変化の影響で、縁側付きの家を建てる人は珍しくなりました。{「縁側」=家の座敷の外側に設ける、細長い板敷きの部分}

  「家畜の繋ぎ飼い」

  6月6日の早朝の出来事。南大野地区の道々を子馬がタッカ・タッカと走っていた。見ると、長〜〜いロープを首で引っ張っていた。昔を思い出す。小さい頃・こんな光景は身近だった。家の前の道端は水路があり、路肩は草が茂るのに最適、水路は格好の水分補給場だった。牛・馬・ヤギ・綿羊の首にロープをつけ、その端を地面に固定し逃げないようにして草を食べさせた。まだ繋ぎ飼いは見かけるが、まもなく無くなる光景かも知れない。

  「野菜洗いの用水路」

  市場に出す野菜洗いは、家の前を流れる用水路が主流だった。ダイコンやニンジン・長いも・ゴボウ洗い、ミツバやホーレン草の根元洗いなど。冷たい水の時期は、手の肌がひび割れをしていた。この野菜洗いは、まだ見かける。しかし、道路改良や食の安全性などを考えると、消え去る光景ですね。

  「リヤカーの魚屋」

  大野町は海のない町、魚は貴重品です。魚をリヤカーや自転車又は背にしょって売りに来る魚屋さんがいた。天秤量りに「えーッ魚」というかけ声。お得意さんには一軒一軒立ち寄るが、そうでない家には立ち寄らなかったことを覚えている。この家の好きな魚は何かを熟知、仕入れもお客様の立場の選別だったのでしょう。この光景は、自動車販売に切り替わっている。


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