TOP   田舎都会通信  蕎麦酔夢「吉田村」  写真で語る   ブログ   リンク集

◎ 田舎の生活も変わったなあ



  生活様式がずいぶん変化しましたね。人口は余り変わらないのに、田舎らしさがどんどん無くなっていくことがわかります。リヤカーでの荷物運び、おひつのご飯が冷めないワラ細工品、赤ちゃんを入れるイチコ、水をくみ上げる手押しポンプ、毎朝一升瓶をかかえて牛舎へ牛乳を買いに・・・・・・・・などなど。たまには、昔の生活を思い返し、昔の生活よさを思い出してみましょうか。

  「父さんの席は一等席」

  父は薪炭業を営んでいたので、暖房の燃料は「薪(まき)」でした。薪ストーブは、天火部分のついた少〜し高級な鉄板ストーブだった。薪のくべる口の前には炉があり、その席が我が家の一等席だった。従って、部屋の暖かさの調整をする薪をくべる役・権限は父にあった。我が家は伝統を守り「薪」を主燃料にしているが、「ペチカ」方式のため一等席制度は無くなった

  「丸型テーブルで一家が食事」

  朝も夜も、食事は大型の丸型テーブルだった。ご飯と味噌汁鍋は母の横に置かれていた。テーブルは父の一等席から横にむけばという位置が定番だった。今は、食事中は「話をするな」という時代、しかし昔はこの丸テーブルを囲み話をするのが楽しみだった。

  「山菜様代わり」

  すぐ裏の山すそには、山菜が沢山生えていた。それが食卓の材料になった。味噌汁の具には、ネギを小さくした「しろ」が。草むらに密集して生えていた。カタクリの葉も湯がいて食べた。こいいうたぐいの山菜を、今は食べなくなった。

  「味噌は手作り」

  味噌汁の味噌、父は自家製でなければいやがった。毎年、大豆を大きな五右衛門釜で煮、それを手廻し器で潰した。手作りの味噌は、おおざっぱに作られカスが浮く。それがいやで私は味噌汁を食べるようになったのは、つい最近のことです。

  「流しの排水」

  流しにはおおきな水ガメがあり、ひしゃくで水を使った。その流しは木製だった。流し前の外には、浸透式の溜めがあった。これがまた浸透性が悪く、いつも溢れていた記憶がある。溜めのまわりはミミズの絶好の住みかだった。我が家も、来年春に公共下水道に繋がる。長い間待ち望んでいた。



目次へ

TOP   田舎都会通信  蕎麦酔夢「吉田村」  写真で語る   ブログ   リンク集