百年の大計という言葉は、よく使われる。私も、町づくりの基本に「百年の森づくり」を掲げています。目先の幸せも大切ですが、将来の子孫の生活に思いを馳せた政策も、大事な使命だと思います。上甲晃さんの「めざせ 命の大国」を、いっしょに考えてみましょう。
「めざせ 命の大国」 志ネットワーク代表 上甲 晃
「国家百年の計を立てて国づくりをしたら、日本は、これから、とてつもなく繁栄する」。松下幸之助が、松下政経塾で、塾生諸君に熱く語り続けた言葉の一つである。
それは、まことに印象深い一言であり、まるで松下幸之助の遺言のようなものであると受け止めている。国家百年の計の裏返しは、目先の動きに追われること。目先の動きに追われれば追われるほど、日本は行き詰ると喝破した松下幸之助の心配は現実のものになりつつある。
「百年かけてこんな日本をつくっていこう」とする考え方は、志そのものである。百年先に照準を置いた活動は、自らが手がけた結果を見届けることはできない。しかし、「このことにしっかり取り組んでおけば、子々孫々の時代、後世の人達はきっと喜んでくれるはずだ」と信じて国づくりできるなどというのは、高邁なる精神そのものであり、生きる誇りではないだろうか。
私が思い描く百年後の日本は、「命の大国」である。この地球上で、「日本ほど命を大切にする国はない」と世界から尊敬の念をもって迎えられる国づくりである。
命を守るためには、まず何より環境を大切にしなければならない。また、食べるものの安全を確保することは、命を守る根本である。国民が相互に心を通じ合うことも、命の健康には欠かせない。すべての活動の焦点を、「命を守る」の一点に置いて、国づくりを進めるのだ。
「命の大国」を提唱する最大の理由は、21世紀に、人類が命の危険と向かい合わなければならない予感があるからだ。爆発する人口を養いきれない食糧問題への不安もある。人類史上初めて、すべての人間が物質的な繁栄を求めてばく進することが予想される半面、エネルギーや資源の奪い合いが激しくなるだろう。環境汚染やゴミ問題も、人類の存亡とかかわってくる。人類全体が命の危険と向かい合う時、「命を守る」ことにおいて、世界の人達のモデルとなる国づくりに成功したら、それは人類全体の朗報である。
第一、経済大国も軍事大国も、突出すればするほど、世界中に争いを引き起こす。それに対して、「命の大国」は、いかに突出しても、世界中の誰からも憎まれない。それどころか、「ぜひ命を守るノウハウを教えてほしい」と頼られる。尊敬される国づくりとは、そんな姿を指して言うのではないだろうか。
「命の大国」は、まず何よりも、食糧の安全と量の確保について、最大限の努力を注がなければならない。当然、一次的に命に関わる仕事である農業や林業、漁業を基幹の産業として強くしなければならない。また、世界一の長寿を実現した伝統の食生活もしっかりと守らなければならない。
「命の大国」は、福祉においても世界のモデルとして高く評価されるだろう。とりわけ世界中の国が高負担による財政難に苦しんでいるのを横目に、ゆとりある財政状況にある。それは、高齢者を社会の大切な戦力として生かすことに成功したのである。生涯現役を合言葉に、高齢者の社会参加の仕組みを作り上げてきた結果なのだ。日本では、これもまた、「命をいかす」基本のもとに国づくりを進めてきた結果だ。
「命の大国」は、国づくりの基本を教育に置いている。命を大切にする心を育むことが、教育の根本。また、地域社会も、命の絆を結ぶ場として大切にされている。
そんな夢物語が、次から次へと湧いてくる。国に大きな計画があると、国民の努力の方向が決まる。国家に大きな志や夢、計画がないから、国民は自分のことしか考えなくなるのだ。残念ながら、日本の政治家の口から、国家百年の計画を聞くことがない。
松下政経塾出身の政治家は、その一点において、今までの政治家とは異なる。松下政経塾出身の政治家は、内容はそれぞれに異なるけれども、すべて、国家百年の計に基づいて政治活動をしていると、胸を張りたいものである。それが松下幸之助の思いであったのだから。
改革の痛みの向こうにどんな夢があるのか、小泉さんにも聞きたいものだ。痛みの向こうに明かりが見えてこそ、改革の痛みに耐えられるのである。痛みばかりでは、とても耐えられたものではない。
それぞれの政党も、いたずらな政争に明け暮れず、「わが党の国家百年計画」を、国民に示してほしいものである。
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