家内が数日留守の時は、「なるべく食器を使わない」「ガスを使わない」、そういうものを食べるようにしている。調理も食器洗いも面倒だからです。代用品は、パン、カップ麺 ・・・・・スーパーで簡単に調達できる。日常の三食が調理しない代用品になったらどうなるのでしょう。
上甲さんの「日本の危機」を読めば、食事をするテーブルが不必要という家庭が増える心配があります。至れり尽くせりの食品が並ぶ怖さ、身近で感じます。
さらに最近は、「ちゃぶ台」復活が話題になっています。昔のわが家、丸いテーブルの食卓を家族で囲み、話もはずんだものです。家族団らんの場の大切さが、いま改めて感じます。
上甲さんの「日本の危機」を読み、立ち止まって身近な不安を考えてみましょうか。
「日本の危機」 志ネットワーク代表 上甲 晃 さん デイリーメッセージから
貧しい時に、一番苦しいのは、「ひもじさ」に耐えることだ。私の子どものころ、日本は想像を絶するほど貧しかった。子供心に一番鮮明に覚えていることは、食べ物に関することがほとんどである。白いご飯を食べて、涙が出そうなくらい感動したこともある。子供同士、すき焼きの肉を奪い合ったことも覚えている。
「食べることに事欠く」、そんな日々が、日本にもあったのだ。今や、ひもじさという言葉は、日本の若い人に通じない。「飽食」と言われて久しくなってきた。有り余るほどの食べ物に囲まれた現代。こんな日々が、永久に続くのであろうか。
面倒だからりんごも、魚も食べなくなった日本人は、いったい、何を食べているのか。答えは明快だ。「完全に調理を済ませて、そのまま食べられる食品」が大ブームなのである。とりわけ働く女性の急増が、お惣菜ブーム。夕方のデパート食品売り場は、さながらお祭りのような賑わいである。そのまま家に持ち帰り、包んであるラップを外して、すぐに食べることのできるお惣菜ブームに拍車をかけている。
過日、打ち刃物の生産で名高い福井県越前市に出かけた。そこの責任者が、「包丁の生産が年々減少しています。一家に一本しか包丁がないことに驚いていたのは、昔の話。今は、包丁が一本もない家もあります」と嘆いていた。野菜などを切る手間も省きたい日本人が増えてきているのである。
お惣菜売り場に立つと、リンゴ屋さん、魚屋さん、包丁屋さんの嘆きも当然と思うほど、至れりつ尽くせり、そのまま食卓に並べられる状態の食品が山をなしている。お惣菜を持ち帰った容器のまま食卓に並べて、食べ終わったら、ポリ袋にすべて投げ捨ててゴミに出すとすれば、台所も食器も、調理器具もいらない。
かつて私は電子レンジの販売の仕事をしたことがある。今から25年以上前のことだ。当時は、日本人が過程でいろいろな料理をすることを前提として、電子レンジを売っていた。お客さんもまた、どんな調理ができるかに関心があった。「電子レンジを買えば、家で調理しなくても済む」ことが、電子レンジの魅力となってしまった。
私は、日本のアキレス腱は、日本人の食生活にあるような気がしてならない。国は、他国から攻められて滅びるのではなく、国民の精神の退廃から滅びるのである。「命」の基本とも言うべき家庭の食生活から、家族のために丹精込める心が消えていくことによって、失うものがあまりにも多すぎるようだ。
21世紀の日本は、「命」をキーワードに、国づくりを進めるべきである。なぜならば、古来、「命」あってのモノダネ。金庫にいくらお金があっても、家庭の冷蔵庫から食物が消えたら、私たちは生きていけない。
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