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◎日本人は「母」をどう歌ったか



  戦後生まれの私には、幼少だった当時の本当の苦しい生活がわからない。お金もモノも無い「貧乏」という言葉が、日常茶飯事の言葉だった時代。その「貧乏」を、乗り切っのが「母」たちなのかも知れない

戦中・戦後を通し、子供を10人以上産んだ母が大勢いる。少子化の今時代からみると、夢物語にも思えるが、子供たちは社会で立派な働きをしている。

産前産後の休養を十分とらず、生まれるその日まで働き、産後の休養も10日そこそこで働き始めた「母」も大勢いたという。「母は強かった」の言葉、本当ですね。

  横浜市・高齢社会をよくする「虹の仲間」の会員に、ノンフィクション作家の新井恵美子さんがいる。戦後の食糧難・貧乏を乗り越えたのは「母」の力。昭和から平成までの母の強さを、大衆の歌謡曲を通して文筆を進めている。


  「お母さんの歌」 〜日本人は母をどう歌ったか〜 ノンフィクション作家・新井恵美子さん


  働き盛りのサラリーマンたちがカラオケ店で好んで歌うのが「みかんが花咲く丘」であるという。三番の歌詞「いつか来た丘 かあさんと」が歌いたいばかりに、彼らはこれを選ぶのだそうだ。シャイで控えめな日本男子はこんな形でしか「かあさん」と呼び掛けられないらしい。

  この話を聞いた時から、日本の母の歌が私のテーマになった。歌謡曲史の中で「かあさん」はどう歌われたのだろうか。森進一の「おふくろさん」や武田鉄矢の「母に捧げるバラード」などを思い浮かべる方もあるだろう。

母の歌など際限なく存在するかと思いきやいざ探し出すと難しい。特に女性の地位の低かった江戸時代母を讃える歌や詩歌は皆無だった。やっと明治になって西欧の影響を受けて母親讃歌が出て来る。「やれやれ」と喜ぶのもつかの間、戦争が始まると「軍国の母」「皇国の母」「九段の母」など軍部の意向を受けた歪められた母の歌が続出する。

  兵隊を生み育てるのは世なのだ。その母に「国のために死んで来い」と言わせる歌がこれらのプロガンダだった。うっかり母たちはその悪魔の誘いに乗ってしまった。名誉の戦死といわれ、大事な息子を奪われて行く母たちは泣くことさえも許されなかった。悪魔のような時代はこうして去り、平和の日々がやって来た。

  昭和24年5月8日(5月の第二日曜日)「母の日」が国民の祝日として制定された。何と晴れがましいことだろう。小学校5年生だった私たちはこの日、歌う歌が見つからなかった。昭和17年に作られた野上弥生子作詞「母の歌」(母こそは命の泉、いとし子を)を先生がやっと探してくれた。

お金もモノもない時代だった。私は母の前で覚えたばかりのこの歌を歌って聞かせた。ささやかな贈り物だった。しかし巷では「岸壁の母」が流れていたのだった。戦争の傷跡はいまだ癒えることなく悲しみの歌が人々の心に響いていた。

  そして平成の世となると母はもはや歌の対象ではなくなった。ほとんどの歌謡曲が恋の歌や自己の思いをのせたものであって、あえて「母さん」を歌おうとはしない。それでもじっと耳を傾けると「母」はひっそりと歌の中に住んでいる。

和田あき子の「MOTHER」、氷川きよしの「箱根の半次郎」、さだまさしの「無縁坂」、吉幾三の「津軽平野」、千昌夫の「北国の春」など探してみたら63曲もあった。時には涙をこぼしながら、いま私はこのテーマに立ち向かっている。





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