私の足で往復4時間の毛無山(標高 750m)に登った。昔は、江差に行く道がこの高所につくられていた。今でも幅3メートルほどの「昔道」がそのままの姿で残っている所もある。昔は、尾根を歩くことが常道だったのでしょう。
その頂上に、チシマザクラが20本ほどあり、まもなく満開を迎える。どうしてチシマザクラがここに?あるのか不思議です。国有林を監視している先輩の話では、鳥が媒介したものだという。それにしても、この高所の厳しい自然に打ち勝つ生命力には感銘する。
ここはブナの大木の森です。風雪との闘いの証が、一本一本の木に刻み込まれています。そんな緑いっぱいの森の中は「シーンとした静寂」を連想しがちですが、そうではない。セミの大合唱、鳥のさえずり、虫の鳴き声、川の流れる音 ・・・ 話声が聞こえない騒々しさは、東京・渋谷駅のハチ公銅像前を連想させます。でもその音は、騒音でも雑音でもない。森がかなでるメロディーなのです。
こういう環境の登山道を歩くと、頭の中が無となり、冷静に物事を感じたり判断できるから不思議だ。また、風雪に耐えて巨木となった木は、人生の山坂をくぐり抜ける姿に似ていて、悩み事を解決させるアドバイスを贈ってくれる気分にさせる。山野草は、住み分けの時期を仲良く振り分け、そして細い茎で風雨に耐えるガンバリを教えてくれる。
登山道を無心で歩き・汗をかくことは、「人生の道しるべ」がおのずから身につくような気がする。プロ・スキーヤーの三浦雄一郎さんは、人生は山登りに似ているところがある。山もさまざま、人生もいろいろである。目標をどんな山に向けるかによってあらゆることが変わってくる、と言っています。
三浦さんの具体的な話を紹介します。「近くのハイキングコースになっている誰でも登れる山ならば、ちょっと一汗かく程度で登れるしコンビニで買ったスナックやペットボトルの水などナップザックに入れてのんびり登れる。
富士山に登ろうとするとそんなわけにはいかない。山頂にたどりつくためには、天候変化、高山病の苦しみ、雨具の道具など大変な努力を必要とする。しかし、山頂に立ったときの気分は最高。そして、登りもつらいけれども下山のほうがもっと厳しい。これがエベレストなどの本格的なヒマラヤ登山になるともっと大変もだ。
建築にたとえるならば、ちっぽけな小屋を建てるなら、ひとりでも日曜大工的なことでできるが、それが超高層ビルを建てるとなるとそうはいかない。ヒマラヤ登山はこれと似ている」。
山に登るということは、人生の目標を定めることにも共通していると思う。志ネットワークの上甲晃さんは、「富士山に登るにはいくつもの登山道がある。どの登山道を登れば得をするのか、楽なのか・・・ そんなことばかり考える人は、富士山のふもとをウロウロしているだけで、結局は登らない」。まずは登ってみる、その経験から得るものは多いはずだと教える。
山に登るということは、小さな一歩の繰り返しです。小さな一歩の積み重ねが山頂に立たせてくれます。人生も、一日一日の小さな一歩を大切に大事にして積み重ねることが、自分の夢の頂上への常道なのかも知れない。
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