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◎ 北京・大連の農業地帯は昭和を連想させる



  2006年7月7日、私たちが研修に向かったのは、北京市郊外に在る著名な農民村「韓村河」。北京市中心部から高速道路を通り1時間余り。広がる平地には、畑作物が青々と成長している。村に近づいた頃、畑を馬で耕起している光景に出会った。なつかしいなあ。

私が小学生時代ですから昭和30年代半ば、わが家の田んぼは馬がプラオを引っ張って耕した。肥料の堆肥を運搬するのも馬。父は馬が大好きだった。馬小屋で毛ブラシをかけてピカピカに磨いていたことも覚えている。近所では、馬小屋と住宅がいっしょの家もあり、馬が大切な道具の時代だった。北京市内では、荷馬車も見かける。大都市北京郊外で馬がまだ失業してない状況なので、中国奥地の農家もそうなのでしょうか。

  2006年7月10日、大連市から高速道路で1時間余、瓦房店市砲台の農家を訪問した。門と自宅玄関までの間に小屋を作り、そこでブタを10頭飼育。そして、そのブタの尿が門の外に作った素掘りの溜に流れ込むようになっている。その溜の側には、長い柄のついた柄杓が置かれている。門前の畑の野菜栽培用肥料にしているのです。なつかしいなあ。

  わが家の裏には、畑が2アールあった。畑にはコンクリートで作った頑丈な肥溜があり、今でもその姿をとどめている。母はこの溜に、流し汁や残飯、稲ワラなどを放り込んで肥料を作っていた。野菜畑には、肥え溜で作った肥料や人糞をまき、美味しい野菜を育てた。母が小さい体で、天秤棒に肥え桶を提げて運ぶ姿は脳裏に焼きついている。また、各家庭から汲み取ったし尿を積んだタイヤ馬車が、となり町の七重浜滞留所に運ぶ時は、臭い匂いを撒き散らしたことは、今でも忘れることはできない。

  2006年7月10日、大連松井味噌工場・松井社長が、この地方の風習を見せてくれた。旧正月には、お祝い行事としてブタを堵殺して肉を食べる習慣があるという。大きなブタの堵殺と始末を、名人が見せてくれた。ブタの頭を鉄の棒で一撃し、ブタの首をもぎ取り血を抜く ・・・ 皮に肉片を残さず処理した。名人の報酬は、日本円で500円プラスブタの頭というのが決まりらしい。私にはこれも、なつかしく映った。

  私が旧大野町に奉職したのは、昭和41年のこと。最初の2年間は産業課配属。大野牧場の管理もこの課が担当だったので、牧場に行く機会も多かった。その頃は、懇親会といえば綿羊をやっつけて、生肉のジンギスカンが定番だった。綿羊を木に吊るし、ナイフで喉元を刺し、血を抜くというやり方だった。

  わが家の野菜栽培がし尿を肥料にしていた時代、食卓に生野菜はあまり出なかった。キャベツ炒め、なすび炒め、ニラ炒め ・・・ 葉物は加熱した料理だった。中国の農業は、近代化された地区は別にして、私には、失礼かも知れないが日本の昭和40年前後と重なる。

  イトーヨーカドー塙昭彦専務の話では、「安心・安全野菜が大都会で販売されるようになった。日本で見られるような、農家の顔写真やデータが表示されている。いよいよ中国も、中華料理に洋風料理を受け入れ、生野菜を食べる時代になる。中国食文化の変化は、スピードがものすごく速いという」。2008年の北京オリンピツク、2010年の上海万博までには、食文化の大変化が予想される。

  日本農業の近代化は完成の域に達している。中国の農業が猛烈な勢いで迫っているのは明らかで、追い抜かれる心配もあります。将来の食糧難時代を見据えると、不安になる。中国で聞かされる日本の印象は、「勤勉さが降下している」ということ。日本の農業後継者・担い手の「勤勉」さ復活、発奮して外国から賞賛されるようになってほしい。


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