昭和59年11月・初めて北京を訪問。当時、広い道路を自転車が波のようにやってくる光景には驚かされたことを覚えている。あれから20数年、自転車の減少した姿には一抹の寂しさを覚える。暮らしの変化が、猛スピードで押し寄せてきていることを感じる。
当時、大きな街路には、ゴミ一つ落ちていないほど清掃が行き届いていたことが頭に残っている。きれいな理由は、制服を着た作業員が清掃をしているからであるが、その方は日本でいうと国家公務員だということにも驚いた記憶がある。
今回北京を再訪問したが、幹線道路・歩道・公園・繁華街・観光地・指定された住区などは、以前と同じく清掃が行き届いている。しかし、一歩幹線道路から小路に入ると、ゴミは捨てられ・散らかされたままの所がある。環境に対する考え方の違いを感じさせられます。
中国をもっと知ろうということで志ネツトワークの上甲晃代表は、「中国理解講座」の現地研修会を毎年開催している。平成13年4月10日に訪問した時の「中国の街頭清掃事情」というのがある。これを読み、ゴミの問題を改めて考えてみましょう。
「中国の街頭清掃事情」 志ネットワーク代表 上甲 晃さん
平成13年4月10日 デイリーメッセージ 3505号から
中国理解講座では一人一人が、テーマを持って中国の生活事情を観察するようにとの宿題が出された。さて、何をテヘマとするか、考え込んでしまった。取材などできないから、目で見てわかるテーマが良いと思った。そして私が、テーマとして選んだのは、「掃除事情」の観察である。
テーマを決めたのは、北京の最大の繁華街である王府井地区を訪れたときだ。中国の最大の繁華街には、大きな通り沿いに、近代的なビルが競い合うように並んでいる。人の数の多いことは、当然である。若い人、田舎から出てきたと思われる観光客、外国人、子供たち、老若男女、ありとあらゆる種類の人間が、ほとんど無秩序に行き交っている。
その道路にまったくゴミが落ちていないのである。ゴミ一つない、それ以外に表現のしようがないほど、完璧だ。中国を訪れる数日前、東京・渋谷駅前の雑踏のあまりのゴミの多さに眉をひさめた私には、これは奇跡である。
理由は簡単。ディズニーランド並みに、ゴミが落ちると、すぐに掃除担当の人がやってきて、拾い上げる。ゴミ担当者は、制服姿で、肩には塵取り、手には箒をもっている。彼らの目は、獲物を狙うタカのように鋭い。
街角で観察していると、何人もの掃除担当者が歩いているのが見える。ほとんどの担当者は、手持ちぶたさ。ゴミがないので、ぶらぶらしている。表通り、都心、ハイウェイなどは、同様にゴミがない。朝の6時、ホテルから首都空港へ向かうハイウェイ沿いには、掃除担当者がどっと出ている。そして、ゴミ一つないように、掃き清めているのだ。
南京も同じだ。ガイドは、南京には、15000人の掃除担当者がいて街のゴミを、朝から夜まで、ひたすら拾い集めているという。南京と北京では、掃除担当者の制服がいささか違う。手にしているのは、箒、肩にかけているのが塵取りであるところは、北京も南京も同じ。主要道路、観光地にはまずゴミはない。私たち外国人が見るかぎりは、美しい国だ。
しかし、もう一つの実態を見た、「夜曲」で名高い蘇州は、水の街でもある。水路が街のなかに張り巡らされていて、中国のベニス。しかも、ベニスのゴンドラと同じ趣向の観光船もある。私も観光船に乗った。しかし、ここはどぶ川並みの汚さとゴミの多さに辟易する。あらゆるゴミが水路に浮かんでいる。両岸にある民家からは、人が出てきて、頓着なしに家庭ゴミを水路に捨てる。ここは、水路というよりは、ゴミ路だ。
建前と本音。ゴミ事情を見ながら、私の頭に浮かんだ言葉である。政府がここをきれいにすると決めたところは、ゴミ一つない。それ以外の地域では、ゴミに頓着しない中国人のありのままの姿が健在だ。落差は巨大。
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