農業地帯の「お昼」の合図は、昔から消防のサイレンだった。私が役場に就職した昭和41年頃は、役場の中に消防があったので、庁舎の屋根にサイレンがあった。火災を知らせるサイレンは、何ともいえぬ寂しく悲しい音に聞こえた。このサイレン、今は住民の「うるさい」という声があり、鳴らしていない。先日、このなつかしい正午のサイレンを黒松内町で聞いた。まだ現役で活躍できるんですね。
作家・新井恵美子さんの随筆「夜明けのサイレン」。この中に、昭和天皇に皇太子が生まれた時、東京の街にサイレンが鳴り響いたということが書かれている。今はテレビやラジオがいち早く知らせるが、当時の伝達方法としては一番だったのでしょう。
また、奉祝歌も作られている。作詞・北原白秋 作曲・中山晋平の「皇太子さまお生まれになつた」という曲です。歌は、当時小学5年生だった童謡歌手・平山美代子が、この曲のヒットでスターになったという。新井さんの「夜明けのサイレン」を読み、当時の情景を想像してみましょう。
「夜明けのサイレン」 作家 新井恵美子
昭和8年12月23日の早朝のことだった。冬の朝の6時半と言えばうす暗く東京の街はまだ眠っている。その静けさを突き破るようにして「ポー」と鳴った。どこの家からも「わあー」と歓声が上がった。
天皇家ではこれまで4人の姫宮があったが男子の誕生はまだであった。平成の世にもお世継ぎ問題がクローズアップされているが、昭和8年に皇太子誕生を待つ思いも大変なものであったという。日本の国は上から下まで寄ると触るとこの話題であったそうだ。
ラジオや号外での報道の仕方もあったが、もっと手っ取り早い方法としてサイレンが選ばれたのだ。生まれた赤ちゃんが女のお子さんだったらポーは一つ。男のお子さんならポーは二つ。そんな約束があったのだ。日にちも時間も分からない。ポーもいくつ鳴るか分からない。東京の町の人々はときめいてサイレンを待ったことだろう。
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「鳴った 鳴った ポー ポー」は流行語にまでなって大ヒットになった。この朝、サイレンを聞いた東京の人々の感動が如何に大きかったかが分かる。これを歌った平山美代子の名も高まっていった。天性の美声の持ち主であった平山美代子の名も高まっていった。
その平山美代子(本名 磐瀬ゆき)が九段会館で講演をなさったことがある。今の天皇が赤ちゃんだった時、すでに5年生だった人なのだ。さぞやおばあちゃんだろうと思ったが、とんでもない。羽のように軽やかな美しいワンピースを召されていてそれが長身の体に良く似合う素敵な女性だった。その時、彼女は大人たちが歌のうまい女の子をどう扱ったかについて話された。
この少女歌手の1回のステージの出演料が父親の1ケ月のサラリーを超えてしまうと家族の思惑も変わって行く。稼げる子どもとなってしまった少女はその後、一家の贅沢を支える存在となる。
童謡歌手としての活動期間は短い。10年間歌い続けた平山美代子は長い方だった。平山が引退した時、彼女の使えるお金は一銭も残っていなかったという。彼女は恨みをこめて「お母さんどうして?」という本も書いた。 ・・・・・ 中略 ・・・・・
新井さんは、現在84歳・平山さんからの手紙を紹介している。その中の一節、「テレビで拝見する天皇がトシを取られたことに驚いています。あの時、赤ちゃんだったのに」。また北原白秋さんがいたら、秋篠宮妃、紀子さまの第3子の誕生、どんな詩を書いたのだろうか。と結びで書いている。
「皇太子さまお生まれになった」 作詞 北原白秋 作曲 中山晋平
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
天皇陛下喜び みんなみんなかしは手
うれしいな母さん 皇太子さまお生まれなつた
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
皇后陛下お大事に みんなみんな涙で
ありがとお日さま 皇太子さまお生まれなつた
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
日本中が大喜び みんなみんな子供が
うれしいなありがと 皇太子さまお生まれなつた
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