「杖のイメージ」
小さい頃から思い込んでいた「杖」のイメージがある。ひとつは、白い顎髭を長くのばした仙人が持つもの。次には、蝶ネクタイをし、正装した地位の高い人が持つもの。杖の効用というより、杖は高級な品物でアクセサリーという感じでいた。
父も、50代の頃は、立派な杖を持ち歩いていた。手にしたのは、銀行へ行く時や営林署の入札など限られた行動だけだった。今思えば、会社のイメージを高める手段だったのかも知れない。
「足が上がらなくなる現実」
高齢者の骨折事故は、普段の生活で起きている。敷居や畳の部屋への段差など、慣れている場所での転倒。外の散歩でも、ちょっとした石ころにつまづいたり、下り坂でつんのめったりの転倒。家族は「何でそんな所で?」と思います。しかし、高齢になるにつれて知らず知らずに老化することを、元気なうちに自らの頭に叩き込んでおく必要を感じます。
私も「山登り」をすると感じます。山道には、木の張った根が出ています。高さは数センチという低いものですが、疲れてくるとこの根につまづいて転ぶことがよくあります。こんな低い根に「何で」、と自分でも思います。若ければこんなことはない。知らず知らずに ・・・・ 感じます。
「杖を拒否」
杖が大好きだった父は、60代になると持ち歩かなくなりました。田舎の生活での杖は、腰の曲がった老人が、曲がりを支えるために使うイメージでした。会社も小さくし、函館などへの外出だけに使用した杖の役割も終わったのでしょう。
90歳が近づいてきたら、転倒することが頻繁になりました。それも、危険な前のめり転倒です。咄嗟の対応がにぶくなると、手を前につくことができず額から落ちます。杖をつけば防げることですが、ガンとして杖を使うことは拒否。理由は、「俺は杖を使うほど老いてはいない」でした。
「老いては子に従え」という教訓がありますが、現実は、「老いても妻や子に従わず」の高齢者が多いようですね。これは人間の心理としては理解できるが、こうならないように、元気なうちに自分を戒めておくことも必要です。
「習慣を
元気なうちに」
高齢者の寝たきりや痴呆症は、転倒しての骨折入院が誘引ということが多いという。高齢者の方を訪問すると、転倒して入院や通院の話は山ほど聞きます。用心せずの転倒は、悔いを残します。自分の不注意やうっかりミスでの転倒は、家族を悩ませることもあります。杖を使っての用心は、自らの体を守るために最低限必要なことです。
私は、山登りをするときは、スキーのストックを「杖」として使います。疲れから足が上がらなくなりつまづいても、杖がバランスを保ってくれます。勾配のきつい下山の時は、適度なブレーキをかける役割が転倒を防いでくれます。父の二の舞は踏みたくない。杖の良さを知り手放せなくしておけば、高齢になっても習慣で使うのでは、と淡い期待を寄せている。
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