サラリーマンの世界には、部長・課長・係長・係・・・・上下の身分関係がハッキリしている。ところが学校の先生の世界、校長・教頭以外は・上下がないように感じます。新任教師でも担任を持ち、父母から一人前の先生扱いを受け、舞い上がってしまうことも考えられる。逆に、新任もベテランも同等ということが重荷となり、授業や指導のことが、相談しずらいということも考えられます。「人間 死ぬまで 勉強」 新任の場合は、身分保証は別にして、謙虚な姿勢で自分の力を伸ばしてほしいと願うものです。
この春、長万部町立双葉小学校長に栄転した、前大野町立市渡小学校・教頭 橋本浩二さんが、教頭会報に記した 「教学半」 は、自らを当てはめ、わかりやすく後輩に激励をおくっている。
「進化の時代は深化の時代」 の中から 「教学半」 の部分を抜粋して記します。
「教学半」
「教学半」、新採用の赴任地である幌延町立・問寒別小学校の校長室で出会った言葉である。出会ったと言うよりも、むしろ新米教師の私が、一番最初にたたき込まれた言葉(教師観・教師論)といった方が適切かも知れない。
国道40号線を北上し、ようやくたどり着いた幌延町は、4月だというのに未だ冬の真っ直中。白一色の景色の中を、寒い・淋しい・暗い・心細い・・・・・・・、心まで冷たくなるようなそんな不安な思いを胸に、更に4キロメートル脇道を進むと、手塩川の向こうに問寒別の家並みが見えてきた。
周囲の景色とは裏腹に、校舎は近代的な電気暖房の整備された立派な建物で、校長室は気品のある分厚い絨毯が敷かれた広い部屋だった。そんな校長室の一番よい場所に、この3文字は飾られていた。恥ずかしい話ではあるが、正直言って 「半学教」 なのか 「教学半」 なのか、右から読めばいいのか左から読めばいいのかもわからない自分であった。最悪なことには、ふとどきにも自分勝手な適当な解釈でこの3文字を理解したつもりで通過しようとしていた。
その時校長先生が、実に落ち着いた声でこの言葉の真の意味を教えて下さった。「教えも学びの半ばなり・・・・・・」。新米教師の私に対して、「先生」と呼んでくれた心地よさにうかれている自分は、教師というものは、教師というゴールを目指しながらいつまで経っても教師になるための学びをし続けなければならないという話を聞き、初めてその職の大変さを知った赴任初日であった。
先生だけれども先生ではない。先生ではないけれど先生をしなければならない。教師は、教師である限り、教師になるための努力をし続けなければならない。
まだ雪多き春の問寒別で学んだことは、「私ははまだ教師の見習いです。教師になるために努力します」。である。
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