大野町本町で小さな印刷所を経営していた 赤井喜一 さん。印刷所といっても、パン パン パン と原紙にタイプを打ち・刷る方式。経営者というタイプよりは、生まじめな技術屋さんというイメージがピッタリと私は思います。
奥様の千代さんを宝物のように大切にしてきました。飄々と仲良くゆったり日暮する様は、相田みつをさんの 「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる」 この言葉がピッタシです。
赤井さんは、10代の終わり頃から20代の時代、たくさんの詩を発表しています。戦後すぐの「新詩論」「近代詩集」「地球」にも。しかし、感ずるところがあり筆を止めてしまったようです。
1979年8月 20歳後半の作品で、村野四郎氏・北園克衛氏の 「新詩論」 「麦通信」 等に発表したものを集め、赤井喜一詩集 「彼岸」 を出版。1979年10月には、詩友 秋谷(あきや)豊さんに 「詩集を出さないのか」と促されて、赤井喜一詩集 「北海道」 を出版した。秋谷さんが詩の集団 「地球」 を作って出発したときに発表したものの、手元に残った僅かなものから。さらに1981年6月には、赤井喜一詩集 「明かりを灯す石」を出版した。
詩人 北園克衛 さんは、「彼岸」 の本の帯に次のように記しています。「彼は戦争中に花ひらいた詩人のうちでは、非常に希な存在であるという理由は、その作品一つ一つが、常に完璧であるということと、あのいやらしい戦争の神の影によって少しも汚していないという点にある。
このほど函館市在住の詩人 荒木元さんが、北海道新聞・2003年8月13日付・文芸欄 「立待岬」 に、詩人 赤井喜一さんについて論評していますので紹介します。
タイトル 「詩人 赤井喜一」 荒木 元 (函館市在住 詩人)
詩人 赤井喜一の存在を知ったのはつい最近のことで、たまたま別な用件で上磯のかなでーるに出かけた折に、ふと足を踏み入れた図書室の棚で見つけたニ冊の詩集によってである。
何げなく手にとりページをばらぱらめくっているうちに、洗練された言葉の深さに胸打たれ、棚に戻すことができなくなり、そのまま借りてきてしまった。二冊の詩集とは「北海道」「明かりを灯す石」である。
どんな方か全く存じ上げなかったので、インターネットで検索したところ、東京で日本を代表する詩人らと肩を並べて活動なさっていた方であることを知った。西条八十・坂口安吾・高見順・田中冬ニ・村野四郎・北川冬彦などというそうそうたるメンバーの中にその人の名はあった。
大野町長も自らのホームページで二度赤井さんについて触れ、「本町で小さな印刷所を経営していた赤井喜一さんは、たくさんの詩を残して逝った。詩集「明かりを灯す石」(1981・6・30)から、「花について」 を紹介します。詩の世界・何かを感じとっていただければ・・・・・・」 と詩を紹介なさっている。
「花は売られてゆく その色彩のうつくしさのゆえに 花は売られてゆく その形の愉しさのゆえに そしてなお 花は売られていった 言葉だけを 土のなかにそっと残して」
あまりにも美しい認識である。私はとりこになり、それから数週間繰り返し赤井さんの言葉の世界におぼれた。その時、赤井さんが大野町に長く住み、既に個人でいらっしゃることも知った。もう少し早くお会いしたかった。
私のようなヘボ詩人と違い、生硬なフレーズはひとつもなく、比ゆのブレもない完ぺきな才能を持ちながら「なぜ戦後十年間の文学活動を残し、突然筆を休め、大野町に移り住むようになったのか」。そして生きることへのひとつの問いかけとして「北海道大野町での暮らしはいかがでしたか」と。
赤井さんならどんな答えを返してくださるだろうか。たぶんその答えは詩集「北海道」の中にあるような気はするが、まだ私はそこまで読み込めてはいない。
数十年ぶりに再会した、かつての詩友・秋谷豊氏に促され、自らの生涯に対する決着としての詩集「北海道」(1979)を編んだ赤井さんは、確かに無名の詩人ではあったが、何かを受賞したから優れた詩人というわけではないからくりはどの世界にでもあるように、少なくとも赤井さんは、人や組織におもねることをしなくても詩人でいられた自立した人だった。このまま埋もれさせてはいけないと思うのだが。
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