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◎父のこと



  私の大好きな父は、吉田金光と言いまして、造材業をしていました。四年前に、九十二歳で天寿を全うしました。亡くなるまでは、随分と私は注意やお叱りを受けました。いったい何歳まで叱りつけるのだと、いつも口ごたえしながらの生活でした。

  父は、いつも『親は親。従っていつまでたっても子は子』この言葉に、私はいつも参っていました。

  こういう父も、晩年は、膝が悪く、前のめり転ぶことが多くなりました。
  病院に連れて行くと、私は、前に両手を出させ、両手で後ろ向きに下がりながら待合室に連れて行くんです。
  この時、顔と顔が向かい合います。こういう状態の時、いつも言われた言葉は『すまないなぁ』この繰り返しでした。このときの嬉しいこと何とも言えません。
  私たち夫婦で、その病院へ連れて行って、「ありがたいなぁ」といつも感じたことは、靴を預かってくれる年増のお母さんのことです。

  私の父を玄関前に見つけると、靴置き場から飛び出して来て、『おじいちゃん、よく来たねぇ』と言って、履き物を脱がしてくれたり、段差の危ない所を誘導してくれたり、私たちがやらなければならないことを、とても優しくしてくれたんです

  しかも、この親切な行動は、私たちにだけではないんです。どなたがおいでになってもなんです。
  ついつい、病気もこの病院に来れば治りそうな気分になりました。

  多分、この方も、介護等で苦労をされたから、相手の気持ちを考えた行動を身体で覚えているんだなぁと思いました。

  「まちづくり」において、職員ひとりひとりが、このような考えで対応できれば、町民からは、とても喜ばれるとおもいます。

  又、父から教えられたことで、忘れられないことがあります。

  産業が、薪炭(まきすみ)から石油に変化したため、薪炭業を営む父は、会社経営に苦しみました。『会社を大きくすることは簡単だ。しかし小さくすることは至難の技だ』と言うのです。会社を小さくするときは、働いている人にも痛みを与える。大きな借金の返済もある。他の父の仲間は、頑張り切れず大半が倒産していきました。

  私の父は一大決心をしたんです。まず、社長の肩書きを捨て、ひとりの労働者として自分も働くことにしたんです。

  働くためには、車の運転が必要と言うことです。父は六十三歳で、まず普通車の免許を取りました。
  そして、チェンソーを買い、一人の作業員を手元に、杉の電柱材を切り出し、何年もかかって会社を整理することが出来ました。

  会社を小さくすることの難しさを教えられました。町の健全財政も同じことが言えます。質素倹約して頑張るなどして『小さな経営』『大きな還元』に努力することが、「まちづくり」に大切です。

  私の父は、物ごとをあまりクヨクヨしませんでした。結果が出たら考える。何でもプラス指向でした。私も親にこの点は似てしまいました。

  後援会の総決起集会の朝、神棚に向かって、『目標が達成できないのであれば、神様、声を出して返答してください。』『お声がない時は、達成できるものとしますよ。』とお願いしましたところ、お声はありませんでした。

  この父親に教えられたこと、父親の血をひいたことが選挙に出る源となりました。

  父はとてもガンコでした。私も父はガンコでどうにもならないとズーと思ってきました。

  ところが、私も「どうにもならない 吉田のガンコ」と言われているようです。


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